初めて勤めたのは証券会社で、店頭営業課という部署だった。
店頭業務と個人のお客様を新規開拓してフィナンシャルプランニングをした。
その頃は女性の総合職はなく、電話外交だけの営業だった。
私は同期の中で一番お客様がつくのが遅かった。
4年勤めた。
白血病になる人、飛び降りて自殺をする人、失踪する人、
点滴を毎朝打って通勤する人。
毎日自分の数字や
課の数字が終わっても、法人や男性営業社員のできない人の支店の数字が上乗せになる。
朝、5時にどうやって電話番号を調べたのか、お客様から株価が心配で電話が入る。
今なら信じられないことだけれど、
男性社員が、社内で女性社員を急に襲ったり、企業パーティーの会場で突然襲ったりすることもあった。
私もされたことがある。
驚きと恐怖で声すら出ない。
互いに仲間と助け合った。
お金と支配の力とストレスで人は狂気になると感じた。
組織社会。
弱いものや、下のものに、抑圧とストレスがはけ口となる。
なにかが狂っていると思った。
20~25歳の頃だった。
まだバブルではなかった。
おかしいと思うことがあって、そのたび若気の至りで、他の部署の上司と喧嘩もした。
先輩二人が、両腕を押さえながら止めた。
私の上司は、「まあまあ」と言っていつも話を聞いてくれた。
数字を出していたから。
当たり前だけど、数字だけが、結果だけがものをいう世界だった。
女性は営業で数字をいくら出しても、給料には反映されない時代だった。
生理が来なくなって、婦人科で注射や点滴を打っていた。
胃薬を常時携帯した。
膵臓がおかしくなり、たびたび病院へいった。
数字が出るまで帰れないし、会って営業できないので、ずっと電話外交をし続ける。
扁桃腺が弱かったので、白くなってたびたび高熱がでた。
そのうち、しろいままになった。
お客様から預かっているお金が一日で半分になったり、なくなったりするような時代だったので、
何千万単位、億単位のお金は返せないので、
点滴と注射をうったら出勤した。
会社を休んだことはなかった。
みんなそうだったので、それが当たり前だった。
同期で8名女性社員で入社していた。
いつもみんなで励ましあった。
仲間がいたから、支えあえた。
私は精神がそのまま体にでてしまうので、
これ以上続けたら体がもたないなあ・と思って、
1年間かかって、お客様が私が辞めてもちゃんとそのあと金利がつくような安全策をねって、
退職した。
全国で商品別の営業成績がトップになり、ファックスで各支店に何回か流れたこともあった。
それは、常日頃からのお客様が私を100%信頼してくれていたからだと思う。
あなたが言うならいいよ。と商品を見ないで買ってくれた。
家にあそびにおいで、リンゴの木があるよ、とか、
おかげで夫婦で海外旅行にいってきたよ、とおみやげをいただいたり。
いろいろなところの会長さんや、退職した方、病院オーナーさん、会社経営者、いろんな方がお客様だった。
お客様向けの今でいうセミナーの講師や、部下の店頭業務指導もしていたので、
3が月残ってほしいと言われたが、
行きたかったヨーロッパへ行った。
退職して、私はなんにも手に職がない。
何ができるんだろう・・と思った。
ずっと続いていたのが、花だった。
そしてその年、昭和の最後63年に結婚して、初めて花の教室を開いた。
そこに勤めたノウハウを生かして、生徒さんを集めた。
経験は必ず自分に生かされている。
それがあってこその今と思う。
おかげさまで、ほんとうに大切なことを、そこでたくさん学んだし、自分を知ることができた。
証券会社時代の友人は今もたまあに会う。
戦友のような長い付き合いをさせていただいている。
たまたま電話がきた。
久しぶりにあうのが楽しみ。
直子、会社でみんな遊んでたとき、黙々と花やってたよね~、
あの頃を思えば、なにをやっても幸せだね、と二人で話す。
小難しい面倒な話はなにも話さない。笑っているだけ。
お互いわかってるから。
きっと私も彼女もあの頃と根っこの性格はかわってないだろうな。

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