愛された記憶があれば生きていける。
そう詞を書かれた方がいらした。
ほんとうにそうだな、と感慨深く感じた。
とことん愛された記憶があれば、
とことん愛することができる。
一度認知した感覚は人の器になる。
乳幼児の花育では、《嗅覚、触覚、視覚の認知》を赤ちゃんに体験していただいている。
愛の深さや大きさや量ははかりしれないものだけれど、
こどもが親を想う気持ちの無条件さは
花育でこどもたちを見ていていつも感じる。
こどもはお母さんがかけねなしに大好き。
だからこそ、つきまとう、
だからこそ、接触したがる、
だからこそ、後を追う、
それは奇蹟だ。
一生のうちに無条件で人とそこまで愛され愛する体験ができる機会があるだろうか。
まったくの主観だけれど、
全然そうはならない乳幼児は、
心底愛されている安心感があるか、
愛されることをあきらめて麻痺させているか、
のどちらか
のように見えるときがある。
誰かに愛される、誰かを愛することは、
どちらも自信と生きる力になる。
「愛は減らない」と言ったのは版画家の名嘉睦念さん。
丹田の奥のほうからこんこんとわき出でる愛を自分でせき止めない限り
愛は減らない。
そしてわき出てあふれだした愛は、周囲をも愛に満ちあふれた環境にすることができる。
そして周囲の生きる力をも引き出していく。
親子だけではなく、
他人との関わりの中でも、ほんの数人、たった一人の人とでも、そうできる慈愛が持てたら・・
そんなことを漠然と考えながら、いつも子どもと花をする。
私は常識や一般からみて、
よい母ではなかったかもしれないし、間違いだらけの子育てだったかもしれない。
そんな私が唯一できたことは、
「●●くんは、おかあさんのだいじな子ども♪」と毎日毎日赤ちゃんの時から言葉にだして言い続け、逆にいえばそれしか表現できなかった。
今もたまに言うと、
「もうわかったから。おかあさんにいじめられたとかなにか言うと、またなにするかわかんないから恥ずかしいからやだ」と息子は言う。
基本彼の意思はオールオーライなので、好きなようにしたらいいとしか言わないけれど、たまに「お母さんの意見がききたいんだ!」とも言う。
そして結局聞いてみるだけで、時間がかかるけれど彼なりの答えを出している。
そんなことを、新聞の壮絶な母と娘の事件の記事を読みながら思う今日でした。