教室をはじめて、今年で丸14年。
たくさんの方と出会いと別れを経験している。
先日、生徒さんの1人が、
花を習いにこれなくなったと
帰り際、そう言った。
帰ったあと、
教室のみんなといっしょに、あれやこれやと心配したり、
話をしたり、さびしがったりしていた。
気になって、後日お電話をした。
なにか、あったの、と聞いた。
「部署がかわって花の仕事内容ではなくなって、
仕事のこともあり、
家での約束もあり、
教室には全く問題はないです。
なんか、ほんとに楽しかったんで、
やっぱりさびしいし、
辞めたくないなあ、とは思っていたんですけど、
だから、会員のままでつながっていたいな、と思って。
そして、たまに、顔をだして、
みんなとなにかしたいなあ、とおもってます。」
というお話だった。
ふだんは、考えることもあまりないけれど、
ただ、単なる花の教室の中で
あたたかなものが育っていたと思うと、感慨深い思いだった。
「人の心、花になりける。」
悲しいときには悲しい花。
うれしいときにはうれしい花。
無理してでも感情を抑えたいときは、抑える花。
自然に生きる植物に向き合い、
自分を素直に表現する場。
内面を磨くにあたり、
鎧や殻ははずして、
裸の自分でなければできない。
それが「風興を知る」こと。
風興については、また機会があるときお伝えします。
教室の中では、みんないつも自然体。
人生はいろんなことがあるというのも、
年齢、性別を問わず、
生徒さんから体験で学んだ。
ほんとうに人の事情、状況、背景、歴史、想い、考え、気持ち、
は自分の範疇を超えるもの、と思う。
だから、
配慮は自分の中の考えと歴史観、過去の記憶でするもので、
思いやりは、そこから一歩すすんで、
双方のコミュニケーションの中から、発生してくるものと思っている。
相手がなにを聞いても言わない場合、打っても響かない場合は、
思いやり合おう、進もう、という意思がないか、
なにかしらの理由で鈍感なので、
仕方がないけれど、
そうではない場合は、
ほんとうに人を思いやるには、素直な意思の疎通と思う。
植物はとても素直。
そして自然。
そして純粋に生きている。
触ったり、見ていたり、そばにいると
人が再生して、生き生きとしてくるのは、そんな本質を植物が持っているからだろう。
花は黙っているけれど、
じっとみているとそれは沁み入り、
真っすぐに
いろんなことが伝わってくる。
いつも植物と接してばかりいるので、
私は逆に、
素直ではない、不自然(人工とはまた別の意味)な、取り繕っている、邪まなものが、
感覚的に苦手になっている(笑)
明日は、毎年恒例のここへ。
$花作家 森直子の 花のいのち 人のこころ
日高地方へ行ってきます(^-^)

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