今日は実家へ。
心経や祝詞を転嫁した聖水などで私が作ったアロマスプレー&オイルを持参。
父の足と手をマッサージしました。
父の手を握るのは何年ぶりだったでしょう。
とっても照れくさかったけど、してあげました。
足のむくみもとれました。
ついでに(笑)母にもしてあげました。
生きているうちになにかしてあげたいと思っていたので、
ひとつできました。
いろいろマッサージ師の人を探していたらしく
「直子はマッサージが上手だから、こんなところにいい人がいた、ちょくちょく来て、やってね」と喜んでいましたから、あ、きたきた、
「高いよ」と言うと
「ごはんと交換」と言われ、相変わらずの母でした。
そんな商売人の忙しく、や○ざさんにも文句の言える、強い母に(私は商売で強くなった、と言っていますがもともとが強い種だと私は思います)強力な念仏のように
ものごころついたときから言われてきた言葉は
「奉仕の精神」
「働かざるもの食うべからず」
「人は人 自分は自分」
「姉なんだから」
「我慢しなさい」
「自分のことは自分でしなさい」
「辞典で調べなさい」
「なせば為る なさねばならぬ 何事も」
48になり、今はようやくその呪縛から解放されていますが、
(人として最もなことなのですが、要は、忙しいし、時間もないし、余裕もないし、手伝ってほしかったし、弟もいて、面倒みきれなかったから、全部ひとりででなんとかしてほしかったのだと思います。)
子どもごころにあった、そんながんじがらめの強力なしがらみを、
ちょこっと抜いてくれていたのは、父でした。
父の先祖は四国の香川の財田、母の先祖は徳島。
お見合い結婚です。
母は美空ひばりや昔の流行歌が好きで、いつも歌を唄っていました。映画よりドラマが好きでした。
和裁、洋裁、機械編みの学校を出ていたので、手作りの洋服や手編みの洋服を作ってくれました。
家が旅館だったので、玄関に花もいけていました。
出身は京極町なのですが、若いころはバイクを乗り回していた娘さんだったそうです。
私はいつも知らない他人と暮らしているようだったので、家であまり気を抜いたことがないように思います。
会社を興して数年後、私が小学校6年生の時、相手先の大きな倒産で回収できず、
一度、私たち家族は無一文になったのですが、旅館も経営していたのでなんとかなり、また盛り返して頑張っていました。
母はそんな父を支えていました。
父が筆で書いた社訓が20条、工場に今も飾ってあります。
父はクラッシックや高橋竹山の三味線が好きで、音楽を聴いていました。ドラマより映画が好きで
「天地創造」や「空海」が好きでした。いつもテレビで洋画を観ていました。
3歳で両親を亡くして、帯広の中学を出て札幌の看板屋に勤めて、姉と妹と祖母の面倒を見ていました。
旅館の隣が看板屋で、芸能人の店や、巨人の選手、議員さん、警察、フォトサロン、広告代理店さん、イベント会場、などのところへ、学生の頃、なぜか私も車に乗り一緒に行って、娘ですと紹介され、あいさつしたのを覚えています。
(たぶん、街まで車で送ってもらった、途中のことだろうと・・)
京都の「杖屋」(杖の専門店があるのです)で買ってきた杖も、今日は父にプレゼントしました。
会社を退職したとき、結婚してしまったら自分のためだけに自由にお金を使えなくなると思い、
お礼にと、思い切って退職金で父と母にその店で一番素敵だと思う腕時計をプレゼントしたのを思い出しました。
今だったら、やっぱりプレゼントできなかったと思います。
父は看板をつけている最中、知らない人に「おじさん、格好の割にずいぶんいい時計してるねえ」と言われたと当時、喜んでいました。(看板屋はペンキがついたり汚い格好です。今はわかりません。)
ふたりとも実直に毎日働いていました。
普通の家庭の(なにを普通というのかはわかりませんが)
こどもなら経験しないような、いろんな出来事や複雑な想いや、怖い経験や極端な我慢もありましたが、
ふたりの働く姿を見て育ったことはよかったんだなと、
おかげさまでしあわせな暮らしだったと今では思っています。
父は母の言うことは聞かないらしく、
またマッサージでもしに行こうと思います。
実家のテレビで東北の震災のあった場所の様子が放映されていたので、見ていました。
以前新聞記者さんとお話していて、
厚別区に移住している方のお話や様子をいろいろと伺った時、
「数年後、声をかけてください」と言いました。
テレビを見ていて、
再度、そう思いました。
それは、食べるものでもなく、着るものでもなく、
私の役割りは「花」だからそう思うんだな、と思いました。